“上野公園のカジュアルな市長” 西郷隆盛像(上野公園)
ニューヨークの「セントラルパーク」には“市長”がいる。
無論、公的な役職などではない、周囲の人間が勝手にそう呼んでいるだけある。権限も職務もないが、何やら影響力をもった“セントラルパークの名物男”に与えられる尊称と思えばいいだろう。
現在、“市長”と呼ばれているのは、アルベルト・アローヨという爺さんである。
この爺さん、70年前にセントラルパークで最初にジョギングを始めたと自称し、80歳を超えた今でも休まず続けている。大統領がSP付きでジョギングをする姿が報道されるお国柄なだけに、ビジネスの中心・マンハッタン島にもたくさんのジョガー(ジョギングする人)がいるが、アルベルト爺さんは、そこでカリスマとして崇められているのだ。
しかし、この“セントラルパークの市長”という称号、どうも彼一人ではない。
1936年に公開されたアメリカ映画「風来坊」(原題“Hallelujah I'm a Bum”)には、偉大なエンターティナー・アル・ジョルソンが失業者たちのリーダーを演じているが、このキャラクターが「セントラルパークの市長」と呼ばれていた。
どうやら、いろんな時代にいろんな“市長”が存在したらしい。
では、こういう“公園の市長”のような存在が日本にもいるのだろうか?
浅学にして私は聞いたことがない。一体、なぜだろう?
他の公園は分からないが、「上野公園」に“市長”がいないのは、西郷さんの銅像のせいではないかと思う。
現実の西郷隆盛が大物であったことは、いまさら説明不用だろう。
明治維新の立役者であり、西南戦争で一度は逆賊とされながらも、大日本帝国憲法発布の大赦で赦され、明治天皇の特旨で正三位を追贈されると、すぐに彼を慕う者たちによって銅像建立が計画されたくらいの大人物である。世界的に見ても、反乱軍側だった人物がここまで国中で愛された例は、西郷さんとアメリカ南北戦争の南軍司令官だったロバート・E・リー将軍くらいではないかと思う。
しかし、実際の西郷さんだけではなく、山手線に乗って上野の山を見れば、必ずその尊顔を拝める“上野のヌシ”のような銅像が、後世の人々に与えた影響も無視は出来ない。
銅像公開の日に招かれた夫人が「こげんなお人じゃなかったこてえ」と不満を漏らした話は有名だが、たしかに明治の大物にしてはややカジュアル過ぎる気がする。これは従兄弟の大山巌がイタリア統一の英雄“ガルバルディ”像がシャツ一枚であることから着想し(赤シャツ隊の軍服だと思うが?)、飾り気のない姿を表現したためらしい。
このカジュアル感が庶民の人気を押し上げ、偉ぶらない大物というイメージを広めたのではないだろうか。“上野”という地名を聞くだけで、すぐに浴衣(本当は兵児帯に薩摩絣)と犬の散歩(本当はウサギ狩りしている姿)を思い出すくらいの視覚的なインパクトがある。
こうしたキャラクターの立つ銅像が近くにあると、生半可な人間が「上野公園」でカリスマとなるのは難しいだろう。ついつい見比べられてしまう。
これが軍服や礼装の姿ならば、「あれはお偉いさんだから」と無視することも可能だが、格好自体は公園で犬を散歩させている普通のおっさんと変わらない。そのくせ、実際の西郷の2倍につくられた大きさは重量感が違う。現実の西郷の実績や逸話が合わさった時の相乗効果は相当なものだろう。
だから、「上野公園」には、マラソンでカリスマになったアルベルト爺さんのような非公式“市長”は生まれにくいのだ。なにせ、恒久的に犬と散歩している、カジュアルな“大物”西郷がいる公園なのだから。
大正12年に大震災が起こり、被災者が大挙して上野公園に押し寄せると、西郷像の台座には行方不明者の安否を問うビラがびっしりと貼られた。ビラは増え続け、終いにはその胴体にまで及んだらしいが、これなどは“上野公園の市長”であった西郷像に一縷の望みを託したとも言える。
実際の人物とその銅像の両方が、ここまでそれぞれ存在感を感じさせてくれる例はなかなかないだろう。