杉山彦三郎翁像(静岡県・駿府城)
「紅茶のリプトン」で有名な実業家サー・トーマス・リプトンが、セイロン茶を輸入し始めたのは、ある人物との出会いからであった。
その人物とはジェームズ・テイラー、セイロン(現スリランカ)でお茶のプランテーションを作り、品種改良や栽培技術向上に生涯を掛けたイギリス人である。
1835年生まれの彼は、18歳の時に一念発起しインドに渡り、そこでお茶の栽培の基礎を学び、一年後にはすでにセイロンで自分のプランテーションを立ち上げ、22歳にはお茶の加工工場を稼動し始めている。
1890年代、リプトン卿がオーストラリア旅行の途中でたまたまセイロンを訪れ、このテイラーと出会う。そして、熱心にお茶を売り込むテイラーに興味をもったリプトン卿は、セイロン茶の買い付けを決意。このセイロン茶は非常に評判がよく、瞬く間に世界に広まり、セイロンの主要輸出品となっていった。それまでセイロンでは、ほとんどお茶の栽培・製造・輸出は行われておらず、テイラーはその恐ろしいまでの行動力で、現在世界の茶葉生産の10%を占める「セイロン茶」ブランドを独力で作り上げていったと言っていい。
我々がただ漠然と飲むお茶には、さまざまな人間の努力が隠されているのだ。
日本で最初にお茶を伝えたのは、遣唐使であったと言われている。以来、社交や嗜好の品として日本人には欠かせないものとなり、すでに江戸時代には海外への輸出品となっていたが、もちろん日本茶にも数々の功労者が存在する。
杉山彦三郎もその一人で、日本茶品種改良のパイオニアと言っていいだろう。
彼は、安政4年(1857年)静岡の造り酒屋に生まれたが家業を弟に譲り、自らは明治初頭にお茶の栽培を始めた。まったくの素人であった彦三郎は栽培技術を学ぶべく、さまざまな人物に教えを受けたが、やがて茶樹に良し悪しがあることに気づく。それまで日本のお茶栽培では混植が良いとされ、良種の選定し単種栽培を行う概念が一般的ではなかったのである。
そこで彦三郎は失敗を繰り返しながらも、選定された良種茶樹の栽培を行い、明治25年(1892年)に「晩一号」を選抜。品種改良の必要性を訴えるために各地を行脚し、「これは良い!」と思う茶樹を見つけると、それを持ち帰って栽培を行うなど、並々ならぬ努力を生涯続けたのである。
しかし、こうした彦三郎の努力はすんなり認められたわけではない。昭和16年(1941年)に、彦三郎が84歳で死亡した時点でもその評価は限定的なものであった。
彦三郎の努力が日の目を見たのは、彼が明治41年(1908年)に見出した品種「やぶきた」が、戦後の昭和30年(1955年)に茶農林6号として奨励品種になり、その優れた品質と日本の風土に適した栽培力によって日本全国の茶園で栽培品種の大部分を占めるまでになった時だろう。この「やぶきた」の母樹は、昭和38年(1963年)に静岡天然記念物に指定、県立美術館に保存されるまでになったのである。
静岡市の駿府城内にある杉山彦三郎翁像は昭和36年(1961年)に、没後20年に際し、その顕彰を行うために設立された。
紅茶であっても緑茶であっても、お茶を口にする時には、こうした先人の業績の上に成りたっていることをお忘れなく!