【第7回】宮崎駿が描く地獄の黙示録『崖の上のポニョ』
ポーニョポニョポニョ、のCMに洗脳されて観に行くのはシャクにさわるなぁと思いつつ、やっぱり観てしまった『崖の上のポニョ』。
観たら度肝を抜かれ、二度も劇場に行った。巷じゃ不評のようだが、とんでもなく異常な傑作だと思う。ひとことで言えば、これは宮崎駿版『地獄の黙示録』ではないか。
映画のハイライトとなっているポニョが宗介を追って津波とともに駆けてくるシーン。ここで高らかに流れる久石譲の音楽が、『地獄の黙示録』のヘリ爆撃シーンに使われたことで有名なワーグナーの『ワルキューレの騎行』にそっくりなのだ。が、それもそのはず、宮崎は実際にワーグナーを聴きながら『ポニョ』を制作したそうで、ポニョの本名であるブリュンヒルデはワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』(『ワルキューレ』はその一部)からとられているのだ。ポニョが長姉であり、眠りからキスで目覚めさせられた男と結ばれるという設定もブリュンヒルデの話に沿っている(そんなことはどうでもいいが)。
つまり宮崎は『ニーベルングの指環』をこそ下敷きにしているわけなのだが、私にはどうも『地獄の黙示録』に見えてしょうがない。『ワルキューレ』を援用した最大のスペクタクルな見せ場が前半で終わってしまい、後半は意味不明な会話劇で観客を煙に巻いてしまうこと。小さなボートに乗って闇の奥を目指すオデッセイであること。商業的大作でありながら、作家的な苦悩と情熱で映画が破綻し暴走すること。そして、全編を色濃く覆う死の匂いと終末感。見れば見るほど『地獄の黙示録』的だ。
宮崎に対して『ルパン三世/カリオストロの城』のようにウェルメイドな活劇を求める人たちは、『ポニョ』のあまりにデタラメなストーリー展開を批判する。『となりのトトロ』のように心地良いファンタジーを求める人たちは、宗介の母親の行動に好感が持てないことを批判する。私は今の宮崎にそんなことを求めない。宮崎は『風の谷のナウシカ』の原作を描いていた頃からすでに、手練手管で物語を語って心地良い希望を提示することを嫌悪してきたのだ。ましてや、現実世界の自然環境も経済システムも政治バランスも文化的モラルも、すべて崩壊しつつある今、老境を迎えて個人的にも死期を意識しつつある宮崎に、明るい希望など語れようか。
宮崎が『ポニョ』に賭けた希望は、ただアニメーションを思いきりアニメートすることだけだった。初期の宮崎がアニメーターとして頭角を現した仕事のひとつに『太陽の王子ホルスの大冒険』の岩男モーグの造形がある。宮崎は山が動くことをイメージして岩男を描いた。背景が手前のキャラたちを支えるためにだけ存在するのではなく、背景そのものが命を持って動き出す。宮崎は世界を丸ごと動かしたいアニメーターなのだ。『ナウシカ』の王蟲は森が動くことを夢想したが、映画版の出来上がりは、のっぺりと平板な絵になってしまった。そのリベンジは『もののけ姫』のイノシシ軍団暴走シーンで果たされるはずだったが、これも映画では簡単に省略された。しかし、ついに『ポニョ』で宮崎は「海そのもの」を動かして見せたのだ。
巨大な水魚となった波が命を持ち、文字通り怒濤のように押し寄せる。その上をポニョが走る。コナンよりもルパンよりも猫バスよりも、底抜けに元気で凶暴に駆けてくる。もはや背景とキャラの区別は消滅し、少女が海と一体となって、走る走る走る。圧倒的にほとばしる生命のエネルギー。人類の未来に明るい希望が見えず、進歩するどころか今日と同じ程度の明日さえ持続可能には見えないとしても、遅かれ早かれ人類が滅びる運命にあったとしても、悲観することはない。カンブリア期やデボン期の昔から、多くの種が滅びながらも生命そのものは形を変えて繋がってきた。我々は生命の海のひとしずくだ。今、5歳の子供に何かを語ってやれるとしたら、「明日はどうなるか分からないけれど、キミが今、大きな命の一部として生きていることだけは確かなんだよ」と言うしかない。
O・ヘンリーの『最後の一葉』で、老画家は少女の命を救うために、命がけで壁にツタの葉を描いた。『ポニョ』は宮崎駿が深い絶望の中、渾身で描いた小さな一葉である。『地獄の黙示録』はマーロン・ブランドの「ホラーだ、ホラーだ」というセリフで終わるが、『崖の上のポニョ』は「ポーニョポニョポニョ」の暢気な歌声で幕を閉じる。芸術的問題作ではなく、たわいない娯楽作を観た気分でお客さんを帰すのは、宮崎の職業倫理なのだろう。「ポニョ可愛いけど、イマイチだったね。トトロやラピュタみたいなのを作ってほしいよねえ」と言いながら家路に着ける人は幸いである。いや、皮肉でも何でもない。昨日と同じ価値観を信じて映画を見て、家族と語ることが持続可能であるなら、それは本当に幸福なことなのだから。